SSブログ

エレファントカシマシと太陽 [分析]


 今、太陽はエレカシの新しい朝を照らしている。
 それは昨年のアルバム『昇れる太陽』が作品として高く評価されるだけでなく、 商業的な成功をもって受け入れられたことと照応している。

 エレカシの世界にとって太陽とはどんな存在なのだろうか?




 太陽がそのままの単語として初登場するのは2ndアルバム収録の【太陽ギラギラ】である。一度どこかで指摘したことがあるが、エレカシにとって真昼の太陽はポジティブな対象ではなく、苦々しい日常の永続性とつながった「無間地獄」の象徴と捉えられることが多い。たとえば、用語としての「太陽」は登場しないが、すでに【太陽ギラギラ】と同じ匂いが1stアルバム収録の【BLUE DAYS】の中にある。その中には「暑くて長い日々」と太陽を強く意識させる表現がある。その延長線上には恋歌である【やさしさ】もある。【やさしさ】のなかでは「あくせくと働いて 一日が過ぎて行く」と表現される、「いつもと同じ」の中に太陽が意識されている。つまりそれらに代表される「憂鬱」が「太陽」のイメージに直結されているため、エレカシの太陽ソングの大半はネガティブなイメージがついてまわる。

 「朝・昼・夕・夜」の4つの区分のうちで、どの時間帯が作品において取上げられる回数が多いか、調べて見たことがある。そうすると、その順位は「夜」→「昼」→「夕」→「朝」の順番になった。圧倒的にその楽曲数が多いのは「夜」で、その他の時間帯との混合したものも含めれば4割は「夜」の歌と呼んでいい作品であった。では「昼」の歌はどうかというと、「昼」単独の世界観では約30曲、その他の時間帯と混合したものも含めて43曲で、約3割のこれまた大きなシェアを誇っている。

エレカシの作品内に於ける、大雑把な時間帯の区分は「昼」か「夜」なのである。そして、それは「太陽」か「月」かというイメージの二項対立となって明確化されている。【パワー・イン・ザ・ワールド】「何度目の太陽だ 何度目の月だ」は、単純に一日をイメージ的に短縮しただけではなく、「昼」の歌と「夜」の歌という意味でも二重に意識されている。

 エレカシの世界において、「太陽」に対してイメージがあまりよくないことは既に述べた。それとは対照的に、「月」の歌はやさしい光に溢れるバラード・ソングが多い。【月の夜】【今宵の月のように】を思い出してもらえばいい。

太陽: 峻厳・労働・憂鬱・無間地獄(いつものとおり)
月: 抱擁・安楽・やすらぎ・感傷


 私がエレカシの「太陽」と「月」の歌から受ける印象は、上のようなものに集約できる(但し、『町を見下ろす丘』以降の作品は少し趣をことにする)。「太陽」と「昼」のイメージがネガティブな対象であり、「月」と「夜」に付随するイメージはその反対にポジティブな対象である。これは、作詞者である宮本の生活リズムが夜型であったことも強く影響している。それゆえに、生活リズムが朝型に変わったという『町を見下ろす丘』以降の作品では、明らかに「朝」や「昼」に対するイメージが変質してくる。だんだんと「太陽」に対するイメージがポジティブに変わってくるのである。

 「太陽」のイメージが転換していく、その中間点にあるアルバム『風』における「太陽」と「月」の表現が、不思議で面白い。冒頭曲の【平成理想主義】では、「いつまで寝たふりするの?」と覚醒を促す内容でありながら、歌の景色は「月の浜辺」「夜中」なのである。つづく【達者であれよ】では(太陽のある)「木漏れ日」の景色はやはり「労働の日々」なのである。つまり、まだ「太陽」=ポジティブの考えには至っていない。それが【夜と朝のあいだに...】で少しずつ変化する。たとえば「そして、目醒めろ。月おちて、太陽のぼるまえ。/逃げない勝負、かけのぼろう。」という歌詞は、【平成理想主義】の世界観とはちぐはぐな内容で、太陽が昇る=「希望」という現在の世界観に近づいている。もちろん、「太陽」がポジティブに捉えられるのはこれが初めてではなく、『ライフ』の【普通の日々】や【あなたのやさしさをオレは何に例えよう】などが前例としてあるが、しかしそれらの作品はその時点では明らかに例外中の例外だったのである。なぜなら、『ライフ』には【暑中見舞-憂鬱な午後-】【真夏の革命】という、それまでと同様の昼の憂鬱ソングがあり、次のアルバム『俺の道』では「何もおこらない 何も変わらない」【ろくでなし】という昼の描写に戻っていくからである。ところが、『風』のなかでは、アルバム後半になるにしたがって、「太陽」と向き合う内容になっていく。

陽ざし照り返すアスファルトの道で
行くあて無いことに気づいたんだ。
「生きて、生き抜いて果てるだけさ行け!」
「生きて、生き抜いて、果てるだけさ」


 これは【定め】の中の一節だが、「憂鬱」が「決意」に変わる転換が行われている。そして、この変化は『昇れる太陽』のなかの【Sky is blue】【ジョニーの彷徨】の中でほぼ同様の景色として現れている。

いわば正々堂々と、太陽と向き合うようにして
けっきょくこの世、未来指向するもの
いわば昨日の人生 こえゆこうとすすむもの


 これは【勝利を目指すもの】の一節であるが、これはそのまま『昇れる太陽』のテーマ性を重なってくる。つまり、『風』というアルバムのなかで、『昇れる太陽』に至る世界観がカタチづくられた、と私は推理している。その証拠ではないが、『風』につづくアルバム『町を見下ろす丘』では、「昼」と「太陽」に貼り付いていたネガティブなイメージが払拭されている。それと同時に、「夜」を無批判に肯定するような内容も失せ、「ボクはひとりで連日連夜いろんなものと戦ってゐる。」というように、「夜」も戦いの世界に変化している。『町丘』がいかにユニバーサル移籍後に近いアルバムであるかは、歌詞の詳細を見ていけばよくわかる。たとえば「太陽」や「朝」についてのイメージの変化にそれが顕著である。

リッスン 聴こえる朝のざわめき
ほら 怠け者よ目を醒ませ。
リッスン 感じる朝の光
ほら 怠け者よ目を醒ませ。

【理想の朝】

雨上がりビルの向かうには晴れた空。
行けよまん中、太陽がまぶしいぜ。
おのづから歩み進め。

道に咲く花のやうに本当さ、いつかこの空ひとりじめ
【シグナル】

いい気になったり 落ち込んだりして 陽がしづみまた陽が昇る
【流れ星のやうな人生】

という感じである。試みにこの続きに『STARTING OVER』の中の「太陽」に関する描写を並べてみよう。

回ってる世界のド真ん中
輝けるbaby陽はまた昇る
いわばキミはいつでも燃えてる炎さ

【今はここが真ん中さ!】

表はいつしか真夏の光 あなたと一緒に今飛び出して行こう
【笑顔の未来へ】

外じゃ光るよサンシャイン 再び飛び出して行こう
【さよならパーティー】

光射す丘の上で あふれる熱き涙
【FLYER】

 『昇れる太陽』については引用するまでもない、ご存知の通りである。EPIC時代からEMI時代の中期までは、「太陽」のイメージが持っていた役割は、「憂鬱」と「いつものとおり」のネガティブなものを表現するためであった。CANYON時代は最終シングルのBサイド【旅の途中】「どこかで太陽は燃えている」以外、歌詞の中に太陽は登場しないのである。それを暗示する「真夏の光」【流されていこう】「のぼりくる朝日」「沈みいく夕日」【昔の侍】はあるものの、それ以外に「太陽」の出てくる歌はない。つまり、CANYON時代のエレカシ作品には「太陽」はあまり意識されていないのである。そして、試行錯誤のEMI時代になってエレカシのなかの「太陽」観に変化が起こり、universal期に入ると完全にポジティブな「太陽」像をともなって堂々とした昼の歌が歌われるようになった。エレカシの時代的な変遷を、歌詞中のキーワードを選び出して抽出してみると、さまざまなことがわかって興味深い。「太陽」と「月」はその中でも使用頻度の多い言葉だけに、比べがいのあるテーマである。

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。