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「RO69」の野音レポート [記事&インタビュー]

エレファントカシマシはロッキング・オン社に後援されているし、
社内に理解者も多いので、ライブ・レポートが出るのを楽しみにし、又拝読している。
だが、今年(7/17)の日比谷野音のライブ・レポートはちがった。
がっかりした。
まずはこちらを一読してきて欲しい(http://ro69.jp/live/detail/37457

ライターは小池宏和氏。
あまりエレファントカシマシ関係では見かけない方(私の思い過ごしか)のためか、
駆り出された印象の仕事で、レポートが雑なのである。
事実のまちがいから始って、的外れがそちこちに。
にもかかわらず、訳知り顔で色々なことを書いている。
内容についての真偽も調べられる限り検証してみた。
評価が良い悪いで判定したのではなく、それが正当な立論かどうかを基準とした。
その結果、あの記事は私には「やっつけ」仕事に思えた。

読みたくない人もいると思うので、「追記」のほうにデタラメさの追求を書いておく(敬称略)。
「RO69」のレポートを読むなら、市井のエレカシ・ファンのブログを回る方が、
よっぽど適確な雰囲気を掴むことができる。
「場外鑑賞」された方や、放映を見られずに記事で追体験しようと思っている方は、
あの内容を信用されないようにと、強く申し添えたい。



まず「去年の2日間の内容もディープだが、今年はそれを凌ぐディープさのセットリスト」だという下り。

ディープな曲が多いというが本当か。08年~09年のセットリストを見返して、「演奏回数が3回未満の曲」を探すと15曲ヒットするのだが、そのうちの4曲は今年になってからの新曲である。つまりディープでレアな曲は11曲ということになる。27曲中で11曲は本当に多いのだろうか? さらに、「08~09年の2年間で演奏回数0回の楽曲」を探してみる。すると【ドビッシャー男】【too fine life】【人間って何だ】【月夜の散歩】がリストアップされる。これこそが本当のレア曲である。昨年の野音の一日目(10/24)はどうだろう。「08年~09年の演奏回数が0回であった曲」が7曲もある。「3回未満の曲」ならば11曲と、今年と同数ある。二日目(10/25)の公演は「3回未満」が12曲ある。この数字を比較する限り、昨年の野音より今年の野音のセットのがほうがディープであるとは言えない。むしろ、同等かやや普通にもどったのが今年のセットリストである。

次に、本編はシングル曲が片手に収まるという下りである。
【おはよう こんにちは】  single「おはよう こんにちは」
【too fine life】  single「男は行く」(c/w)
【生命賛歌】  single「生命賛歌」
【武蔵野】  single「コール アンド レスポンス」(c/w)
【幸せよ、この指にとまれ】  single「幸せよ、この指にとまれ」
【友達がいるのさ】  single「友達がいるのさ」
【赤き空よ!】  single「幸せよ、この指にとまれ」(c/w)
【ガストロンジャー】  single「ガストロンジャー」

フロント・サイド4曲、カップリング・サイド4曲で8曲シングル曲が存在している。片手というのは5曲以内ということだから、まったくもって収まっていないのである。EPIC時代のシングルは没念していたとしても、それでも6曲あるのだから、いかに適当に物を言っているかがわかる。

シングル曲が少なかったという内容にも反論がある。そもそも、エレファントカシマシのシングル数は活動年数の割りに少ないのである。今年発売の「幸せよ、この指にとまれ」がまだ39枚目なのである。そしてこのシングルに収録されている曲は(カラオケをのぞけば)、78曲となり、エレカシの総楽曲数は約200曲(正確には210曲ほど)に占める割合は4割となる。今年の演奏曲27曲に対して、シングル曲が演奏されたのが(アンコールもふくめて)11曲。つまり、総楽曲数に占めるシングル曲数の割合と同様に、約4割なのである。ゆえに、シングル曲のパーセンテージはむしろ適正であり、多いとも少ないともいえない。ちなみに今年の新春公演のシングル曲の割合も、野音の演奏曲数と大差なかった。(新春公演はUNIVERSAL所属期の楽曲数が高かっただけ)。

音楽ライターなら、ディープであるかないかの根拠は明確にするべきであるし、根拠を出したならその正確さをたしかめるべきである。小池は、自分が出した定義の正確さを確かめる、その音楽ライターとしての責務を果していない。ちなみに、私が考える「ディープ」の基準は、シングル曲が多い少ないではない。演奏回数の少ない曲やレア曲(カップリング・サイドのみ収録の楽曲)が、公演のセットリストに占める割合が高いこと、それこそが「ディープ」の基準となる。

音楽ライター・小池宏和が殊更に今年の野音が渋いセット・リストだったというのは、会社の先輩でエレカシ通の山崎洋一郎が、そのブログで「ファン慟哭の激シブの選曲だった」 と述べていることを慮ってのことだろう。だが、この文章には前段があって、「前半は」という主語があるのである。さすが山崎洋一郎である、「後半は」王道のヒット曲、ライブ定番オンパレードであることを踏まえているのである。それに比して、小池宏和の記事は根拠の薄弱なシングル曲比率などを持ち出して、何か「いつもとは違う」感を演出しようとして、失敗している。そもそも、アルバムにおけるシングル曲数が比較的少ないエレファントカシマシでは、アルバムTOURの方がシングル率は下がることが多い。ゆえに、そんな数字を持ち出しても全然「ド渋」を計ることはできないのである。

ちなみに、記事中に「けっこうド渋な曲もやるから」という、宮本の発言を引いており、宮本自身も渋めの選曲がセットリストの一部であることを述べていることが明らかになっている。

しかし、私がひっかかったのはむしろその後、「良い意味で『タチの悪い』ロック・バンドとしてのエレカシが序盤から全開になっていた」という、賞めているのか貶しているのか、わからない表現である。序盤の演奏のどこに「タチの悪い」ところがあったのか。おそらく彼は【奴隷天国】や【この世は最高!】、【珍奇男】のような、聞いている人を挑発するようなエレファントカシマシの持ち味を指摘したかったのだろうが、序盤は【おはよう こんにちは】【ドビッシャー男】【ファイティングマン】【うつら うつら】【too fine life】【シャララ】【道】である。そんなに観客を挑発する内容だろうか? むしろ、ダウナー系、克己を歌った作品が多く、いわゆる社会派であったり皮肉満点の楽曲、たとえば【ゴクロウサン】とか【星の砂】とは違う。そう、今年はその手の曲は少なめだった印象が私にはある。とくに序盤はそうである。本当に真剣にライブを見ていたのか?

しかし、彼がそう思っているのだから、その感想は構わないと思うが、私は的外れだと考えている。しかも、どう好意的に解釈しても「タチが悪い」は褒め言葉ではないと思う。いや、表現として正確ではない。「型破り」「常識外れ」「横紙破り」など、もっと相応しい言葉がいくらもあるのに、なぜそこいらのチンピラ・バンドを底上げするような「タチが悪い」なんて言葉を、ベテラン・バンドに向かって吐くのだろう。不快である。

「まるで、霞ヶ関に向こうを張って繰り広げられる不法集会のような様相を示していた。」

に至っては苦笑するほかはない。いや、セットリストがそういう内容で、観客席が殺気だっているのならこの表現でも構わないが、実際の現場はもっとくつろいでいた。まったくもって、「不法集会」の欠片もなかった。その後につづく「生きにくさ」を代表して歌っているアーティストだったという意見は、鋭い。その側面は確かにある。但し、現在のエレファントカシマシはバンドとしての充足感のが強いので、「生きにくさ」よりも、自分自身「精一杯生きる」アーティストとしての側面のほうが強く出ている。そして、今年の野音はどちらのエレカシの性格が色濃く出ていたか、それを考えると「生きにくさ」であったとは思えない。ところで、どの場面が「不法集会」だったのか根拠を訊きたい。

「30歳ぐらいで、いろんな歌を作るようになって。“ファイティングマン”とか“奴隷天国”だけじゃなくて、いろいろ思ってるんだから」

という書き起こしの要約も少しニュアンスが違う。30歳になったあたりから、色んな作風の歌を意識的につくろうと思った、と言っていたのだ。小池の要約だと、たまたま色味のちがう作品が出来はじめたように受け取られかねない。宮本浩次は、自分で作風を変えたことを伝えたかったのだ。【ファイティングマン】【奴隷天国】の下りも、その文脈の延長にある。EPICの作風のようなことを、いつもそればかり思っているわけではないから、別のことも歌おうとしたのだと(EPIC至上主義のファンには聞きたくない発言だったろう)。で、それが「成功して売れたとき、うれしかった」と。今も、ちがう仲間と色々な歌が制作できて、また売れてきてうれしいと、言いたかったんだろう。そういう文脈だった。その意図がまったく伝わってこない。(正確なMCはこちらに書き起こしてあります「2010年日比谷野音の感想(その2)」)

小池宏和の無茶な形容は続く。【月夜の散歩】に対する形容を見てみよう。

「口笛のメロディも届けられる穏やかな演奏に、木々の間からサラウンドで響くノイジーな蝉の声が重なって見事な風合のパフォーマンスになっていた。ムキになって息をするのも忘れるほどに悪態を吐きまくって、ようやく訪れる深呼吸がてらの大きな溜息のような時間帯だ」。

である。何だか、まったく的の外れたアナウンサーの「スポーツ実況」を聞いているような気分なのは、私だけだろうか。「穏やかな演奏」「蝉の声」まではいい、「悪態を吐きまくって、ようやく訪れる深呼吸がてらの大きな溜息」って、今年のセットリストを確認するかぎり、【月夜の散歩】の前には悪態めいた歌はない。しかも、悪態の後に深呼吸をするものだろうか。むしろ、「吐きまくったら」息が乱れて、ゼーゼーいうだろう。「深呼吸がてらの溜息」って、言いたいことがまったくわからない。訳のわからない遠回りしないで、「静寂のなかで歌われる、穏やかな散歩の風景に心打たれる。」それだけで充分ではないのか。前もって用意しておいた形容詞を連発する、古館伊知郎式の実況のようで、白けてしまった。

昨年もこんなんだったのかなと思って、09年のレポートを読み返してみる(http://ro69.jp/live/detail/26936)。いや、こちらはまったく問題なかった。2日間分の公演内容をうまく要約して、レポートしている。ちなみに筆者は高橋智樹。すばらしいレポートだ。

少し小池宏和のフォローをするなら、新曲【歩く男】への分析、「歩を進めながらも悩みや迷いは尽きない、かつての宮本と今の宮本の両方の顔が共存するような一曲であった」は的を射ている。しかし、ここでも重要な指摘をのがしている。「夕暮れってやつは美しい 何とか歌にしたいもんだ」という歌詞の内容に触れていないのである。夕暮れの歌というのはこの曲を語る上で欠かせない要素だと思うのだが、みなさんどうだろう? 音楽ライターなら見逃してはいけないモチーフ(制作動機)ではないだろうか。

せっかく賞めたところなのだが、また暴走する。

「今回のステージは、まるで生きることと向き合いながらささくれだっていたばかりの頃の宮本を、思い起こして解き放つことが目的であるかのようなパフォーマンスを見せている。そして、エレカシというバンドはそこから逃れることもできないのだと、それを再確認する場でもあるように思えた」。
(原文ママ)

私にはそうは思えなかった。むしろ自己肯定に満ちていたし、「ささくれ」を解き放つ場面は少なかったと思う。後半、ステージ・ワークにイラ立つことはあったけれど、あれは「思い起こして解き放つ」のではなく、「今の自分」に「今」イラ立っている、演奏の完成度に不満があっただけではないか。「過去」は関係ないと思うが、どうだろう。「思い起こして解き放つ」ていたに、共感するファンはどれくらいいるのだろう?

さらに、暴走は増すばかり。

「きっちりと論理的に纏められた理由もなく、憤りにまかせてねじれ政権の背中にドロップ・キックを見舞うように轟いた本編ラストの“ガストロンジャー”は、決して論理的でないのに今回のエレカシの姿を見事に締めくくっていた」。

ここに至っては、まったく意味がわからない。前半の意味不明の形容、「ねじれ政権の背中にドロップ・キックを見舞うように」。これはライブ・レポートに必要な表現なのだろうか? 個人的な政治談義は、稿を変えて別のところでやるべきで、少なくとも宮本浩次は「ねじれ政権」がどうのとは言っていなかった。だから、なぜ「ドロップ・キック」なのか、まったく理解不能である。(私は民主党支持者でも、自民党支持者でもない、是々非々の無党派であることを申し添えておく)。しかも、宮本の歴史理論に満ちた【ガストロンジャー】を「決して論理的でない」とはどういうことだろう。小池宏和は【ガストロンジャー】をただの攻撃ソングと捉えているのだろう。だが、実はその先に「己自身」も同時に存在し、自分の「化けの皮」を剥がさなければならないと歌われていることを、まったく捨象している。小池が「論理的ではない」という【ガストロンジャー】の歌詞が、『bridge』に連載されていた「東京の空」に基づいていることは、ファンには衆知の事実である(*註記)。理知的に書かれた文章を歌にした内容が、「論理的ではない」とはある意味侮辱ではないだろうか?

まったく、ひとつひとつ指摘するのも骨が折れる。「収まりがつかない苛立ちがそのまま描き出されたアンコール」。これも思い込みがひどい。小池が言う、「ささくれ」と「憤り」「苛立ち」、これみんな根拠が薄弱である。セットリストをよく眺めて、それからパフォーマンスをよく思い出して、それからそれを咀嚼してからレポートを書くようにして欲しいものだ。「うれしい」とか「サンキュー」とか、「ドーンと行こうぜ」という言葉が耳に入らなかったのだろうか? ダブル・アンコールに出てきて、「いつか見た夢を正夢にしよう」という新曲を歌うバンドに対して、「収まりがつかない苛立ち」というレポートが当てはまると思っているとしたら、病気である。

百歩譲って、その形容が【花男】だけに向けられた解説だとしよう。けれど、小池自身が「宮本が更に引っ掻き回してアンサンブルが危ういまま転げてゆく」と述べているではないか。単に、呼吸がずれて演奏と歌が乱れたことを、いちいち「収まりがつかない苛立ち」などと言っていたら、アマチュア・バンドはみんなその範疇に当てはまってしまう。それとも、演奏がうまくいかないと、みんな「収まりがつかない苛立ち」を表現するのか。

そして、最後の最後、Wアンコールの新曲に対して、「開放的な、美しく眩い曲調の新曲が披露された」と述べたのでは、前言の信用性が揺らぐではないか。小池は、「生きることと向き合いながらささくれだっていたばかりの頃の宮本を、思い起こして解き放つことが目的」といい、「収まりがつかない苛立ちがそのまま描き出されたアンコール」と直前まで言っていたではないか。なんで「開放的な、美しく眩い曲調」という表現に転向するのだ。もし、自分の論を貫徹するなら、底に内面の葛藤があると無理やりこじつけるか、前言を撤回して、やはり現在のエレファントカシマシは前向きで力強いと言わなければ、まったく支離滅裂である。散々、「荒れてる」「荒れてる」と言い囃し、アンコールでは美しいキラキラした曲でしたでは、ライブ・レポートしての信用性が薄いとしか言いようがない。邦楽好きの若者が信用おいて見ている音楽サイトのレポートが、こんな低いレベルのものでは思いやられる。適当なことを書かないで欲しい。

「RO69」の今年の野音レポートはひどい。それが私の感想である。理由は検証してきたような、根拠のない思い込みと、意味のない無駄な形容の連発である。無理に誉めあげようとして失敗している無残さが、レポートに現れている。失敗の指摘はくりかえさない。変に誉めあげずに観客の反応とステージ・パフォーマンスだけを解説すればもっとよかったはず。「思い起こして解き放つ」とかどこかで聞いたようなフレーズを使わないで、「荒々しかった」とか、「静謐なバラードだった」とか、短く適切な形容をひとつ付ければいい。小賢しい修飾が、せっかくよいことも書いているのに、それさえも台なしにしている。(了)

(文中敬称略、内容以外の言葉遣いにおける無礼をおわびします)

註記: エッセイ集『東京の空』に【ガストロンジャー】の基になった文面があるというのは事実誤認でした。ただ、連載の内容に、【ガストロンジャー】の歌詞を生み出した宮本浩次の文化観・歴史観に基づいた記述があったことは確認できました(第二回、第五回、第八回など)。つまり、あの歌詞が論理的な思考から出てきた、宮本版「日本文化私観」であるということは間違いないと思います。であるから、発行元の音楽ライターがそれを確認せずに、【ガストロンジャー】は論理的でない、という的外れを言い出すことに私は腹を立てているのです。
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この文章が的外れ
by お名前(必須) (2013-07-19 17:15) 

黒のシジフォス

久しぶりに寄ってみたら。
名無しさん( お名前(必須))からの批判コメントですね。
見解の相違はありますが、意見の違う人も排除しないので、
「この文章が的外れ」というならば具体的に批判をコメントしてください。
おそらくあなたと同じ考えのかたもいるかもしれないので、
そういう方にとっては具体的な指摘があるほうが良いと思いますよ。
何はともあれ、まずはご来訪いただいたことにお礼と、
たぶんお初なのでしょうから、はじめましてと申し添えて返信とさせてください。
ファンの方なんですよね?
ならば立場のちがいはあれ、
まずはエレファントカシマシ再始動をそれぞれの立ち位置で祝いましょう。
検索でまちがって立ち寄ってご立腹なのでしょうから、
御不興を買う目汚しであったことは残念に思います。それでは。
by 黒のシジフォス (2013-07-26 22:33) 

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