SSブログ

ナメクジのようで嫌いだ… [つれづれ]

最近の小説は文章がまずくていけない。
誤字脱字や「てにをは」の話をしているのではない。
文章がもっているリズムや漢字かな交じりの表記、
何よりも言いたいことの整理がまるでなってない。

それはまあ我慢すれば読めないわけではないが、内容がまったく駄目だ。
物語の展開に関する外連(けれん)の手口がよい作者は多いが、
全体、これが伝えたいのでこの物語が必要だという、「レーゾン・データ(存在理由)」がない。
それはとくに推理小説と恋愛小説のジャンルに多いように感じる。

「字は体を表す」という訓言があるように、
「文は人の性をよく映す」。
性急な人が記せば性急な文となり、
のらりとした人が記せばのらりとした文となる。
理系の人の文は理系的な構造をもつ文となり、
文系の人の文は文系的な構造をもつ文となる。

そこで今回のお題目である「ナメクジのよう」に繋がる。
その昔、何かのインタビューで宮本浩次が中原中也を評して発言したのが、
「ナメクジの…」である。


おぼろげだが、「Yahoo! トーク」の中で、視聴者からの質問への回答じゃなかっただろうか。
「贈られて困ったプレゼントは何か?」という質問に、「中原中也の詩集」と答えたのだと記憶する。
そして、その理由が「ナメクジのようで好かない」という趣旨の発言をしたのである。
贈った人(また愛読する方)には申し訳ないが、あるしゅ納得してしまった。

中原中也という人はどうも自己憐憫が強いように思われる。
しかもそれが自己陶酔のようになっているような気配がある。
たしかに文章は美しいが、湿り気があって、陰湿で女性的である。
しかし、女性的とはいっても、女性が書く文章というのではなく、
男が中性的にもつ「女性」性と言ったようなもので、虚飾されたデフォルメ的なそれである。
ゲイの人たちがまとっている雰囲気といえばわかりやすいだろうか。
そうした特質が作品全体にヌメリとまとわりついているから、
それが感覚的に合わない人には、絶対的に嫌われるのがよくわかる。

中原中也に似た詩人として、私は金子みすゞを類推する。
彼女の詩や文章も自己憐憫的であり、中性的である。
しかし、彼女の場合は中原中也とは逆向きの中性で、
女性のなかの「男性」性なのであるが、
その理想とされているものが決して実在しない病弱で理知な「男性」像であり、
ヤオイ小説的な匂いのそれなのである。
金子みすゞの作品もまた、ある意味で、底ぐらさを拭えない。

以前、エレカシファンの間でどんな作家が好まれているのかを調べた時に、
中原中也や金子みすゞが多くなかったことに安堵した。
宮本浩次が中也をあまり好いていないのと同様に、私も彼らと感覚がそぐわないからである。
震災直後(今でも時折)ひんぴんとして流された公共広告の朗読。
あれを聞かされるときの私の苦痛は、単に偽善的だからではなく、読まれている作品と反りが合わないからである。

自分の感性に酔って潔癖である作家が私は大嫌いだ。
中原中也や金子みすゞはそのきらいが強い。
近年の作家では平野啓一郎という人がそれである。
芥川賞だか何だかを受賞した時に一度読んだが、吐き気がした。

自分のなかの悪意と向き合える作家が私は好きである。
たとえば、太宰治は少女趣味的な感傷を持ち合わせているが、
誰かを悪意をもって傷つける自分の行為について、虚飾しない。その意味で嘘がない。
掌編小説「黄金風景」が人を感動させるのは、まさにそれである。
人には悪意があるが、それを恥じる気持ちもある。
人の善意に他人が当てられるのは、悪意がその存在を照らすときである。

中原中也や金子みすゞ作品にはそれがない。

最近ゆえあって、宮澤賢治の作品をめくりかえしているが、
宮澤賢治は中也やみすゞとはまったく違う性状の人であることを最近了解した。
賢治はそれほどメルヘンではないのだ。
さすがに農業をやっていた人だけあって、自然の嫌らしさや農業利権関係の悪意を知っている。
童顔な佇まいに誤魔化されるが、賢治にはけっこうな悪意やシニシズムがある。
しかも聖人君子ではない。
ただ、遺族や取り巻きたちがやたら「聖人君子」像をつくりあげたために、
実像と虚像が混在していて、わかりにくい人である。
私が知っている宮澤賢治の影の側面は、国柱会(戦時中の急進的な右翼結社)の活動家だった経歴である。

宮澤賢治の不思議なところは、共産自治的なユートピアを求めながら、
天皇を頂点に戴く急進的な右翼活動に熱心であったという、アンビバレントな活動があることだ。
それは賢治のなかでは日蓮宗の教えを通して結びついていたらしいが、
賢治は西欧的な化学やギリシア・ローマ的な叙情にも共感があったのだから、いよいよ不思議である。
「愛国」の士である賢治は、反面で西欧に強く憧れるモダニストという側面も持っていた。
その立ち位置はもしかしたら北一輝などと共通するものがあるのかもしれない。
宮澤賢治の魅力は、虚実のなかに仄(ほの)光る、人間くさい悪の像なのかもしれない。

国語の教科書のなかの太宰治のつまらなさは「走れメロス」のせいであるが、
また、国語の教科書のなかの宮澤賢治のつまらなさは「銀河鉄道の夜」と「風の又三郎」のせいである。
国語の教科書は作品解釈のなかで、それらの作品を通じて、潔癖な作家像のような嘘を教えるからである。
「よだかの星」を読めばわかるが、あれは村八分へのシニカルな当てつけだろう。
詩篇「永訣の朝」における妹とし子への惜別も、肉親の情を超えて、
どこか恋人に宛てた思い、すなわち背徳の恋情の風さえもある。
それは必ずしも肉体的な恋愛感情を意味しないが、賢治はとし子を幾つもの意味で愛していた気がする。

さて、話はまた変わるが、
手塚治虫という漫画家もまた、太宰治や宮澤賢治のように誤解されやすい作家である。
手塚治虫は教科書に載せられるような安全な作品の作者ではない。
むしろ、シニシズムやらディストピアに満ちた、危険思想の漫画家なのである。
にもかかわらず、小中学校の図書館にはたいてい『火の鳥』や『ブッダ』や『アドルフに告ぐ』があるのだから、
これは逆にとてもよい教育である。

『鉄腕アトム』があるから手塚治虫は原発肯定派だと思っている向きも多いが、それは間違いだ。
むしろ、そうした原子力の危険な施設や兵器利用を嫌ったのが手塚であり、
経産省や原発ギョーカイから何度もキャラクター利用の申請があったが、
ことごとく断り続けて、「僕は原子力発電には反対です」とはっきり言ったのである。
そもそも、『鉄腕アトム』のほうが日本の原子力発電よりも連載開始が早い。
しかも、アトムの動力炉は「核分裂」ではなく「核融合」のシステムである(まあ、どちらでも危ないのだが)。

話がとっちらかってしまったので、整理して閉めることにしよう。

宮本浩次は中原中也が嫌いである。
そしてその理由を「ナメクジのよう」だからと評した。
その意味は、中原中也が持つ自己憐憫的な作風と、潔癖症的な佇まい、
さらにいえば中性的なスタンスをさして発せられた言葉ではないかと、私は理解している。
私も中原中也が苦手というよりも嫌いだからである。
中原中也に類例するほかの詩人としては、最近脚光をあびた金子みすゞがあると思う。
エレカシファンの多くが愛好する詩人かつ童話作家である宮澤賢治も、
一見、中原中也の同類と見られやすいが、本質をみればまったく別人である。
宮澤賢治や太宰治には「悪」の側面があり、それを自ら認めている点においてである。
あるいは、漫画家・手塚治虫は模範的で教科書的な作家と見なされているが、実は全然そんなことはない。
学校の図書館に完備されるような推薦図書でさえも、そうである。
だから、「悪」をふくむ物語として、誤解をふくみながら学校の推薦図書になっていることは、実はとてもよいことである。

手塚治虫のダークサイドを端的に知りたい人は、青年誌「ビッグコミック」に連載された作品を読むとよい。
『地球を呑む』『一輝まんだら』『奇子』『きりひと賛歌』『グリンゴ』などである。
『ブラック・ジャック』において無免許医ブラック・ジャックの法外な請求が、ときに適法行為よりも正当なように、
ライバルのキリコが安楽死を勧めることにもまた正当性があるところに妙味がある。
ブラック・ジャックのなかのよいエピソードは、命を救えたときよりも救えなかったときのほうにある。
医者というものは命を万能に操れるものではない、ということを教えるのがブラック・ジャックだからである。

さて、宮本浩次が中原中也を嫌いなことは明らかなのだが、
金子みすゞや宮澤賢治、手塚治虫については確証のある発言を耳にしていないので、
どうということもできない。
ただ感覚的にであるが、みすゞは嫌いであろうなと思う。
逆に、宮澤賢治や手塚治虫については、大好きとは言わないもでも、嫌いではないだろうと類推する。
完全に私のあてずっぽうに過ぎないが。
(了)
nice!(1)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 1

コメント 3

いし

宮沢賢治について書かれていたので、矢も盾もたまらずのコメントです。
僕も彼に関しては「以外だ!」と驚かされる部分があって面白いなと思ってました。
満州に視察旅行なんかも行ってますしね。しかし、「カイロ団長」なんかは最後にお上が出てきて、それに従順な善と悪、ある種水戸黄門的な話を読むと、そういう部分もやっぱりあるんじゃないかなと。また、イーハトーヴみたいなユートピアを夢見つつも、優秀な営業マン的な一面も持っていたらしいですしね。興味深い男です。
余談ですが、『なめとこ山の熊』の矢崎茂朗読バージョンは超がつく程の秀逸ものです。



by いし (2011-07-25 11:24) 

黒のシジフォス

> いしさん、コメントありがとうございます。
いつものことですが、応答コメントおくれてすみません。

この項目は、ファンの人からは怒られてしまいそうな内容ですが、
好き嫌いというものはしようがありませんね。

ちなみに、後付けで調べたのですが、
中原中也は極度の潔癖症でまちがいないようです。
ちなみに、金子みすゞはよくわかりませんが、
中原中也と同郷の長州藩(山口県)出身のようですね。
その辺、調べずに印象批評していたわけですが、
あながちまちがいではなかったようで、安堵しました。

宮澤賢治についても浅学の徒です。
ただ、国柱会の活動は知っているんですよね。
満州旅行(「王道楽土」見学ですよね、たぶん)に出てたんですね。
ちなみに私が宮澤賢治の複層的な側面を深くしったのは、
劇作家の北村想のおかげです。
彼は『想稿・銀河鉄道の夜』『雪をわたって』『けんじのじけん』などなど、
宮澤賢治とその作品を主題にした劇作をレパートリーにしています。
その中で、「ピカレスク」な一面を描いています。

ちなみに北村想は太宰治や坂口安吾などのデカダン派の小説家も大好きで、
太宰治らしき主人公の登場する舞台もやってます。
そういう接点からも、宮澤賢治と太宰治は案外に近いのかな、
などと最近考えています。

ところで、今、私が熱心に読んでるのは石川淳の『諸国畸人譚』です。
石川淳は森鴎外や永井荷風の系列の作家ですが、
晩年の荷風に批判的だった、気骨のある作家で美文で有名です。
不条理小説の安部公房のお師ですね。

おすすめの「カイロ団長」機会を見つけて読んでみます。
by 黒のシジフォス (2011-07-30 21:53) 

坂田三吉

「蛞蝓(なめくじ)みたいにてらてらした奴で、
とてもつきあえた代物ではない。」これは太宰治が中原中也を評した際に放った言葉で、おそらく宮本さんはこの太宰の言葉を気に入っているんだと思います。太宰はたびたび酔った中原中也に絡まれ罵られ、うんざりしている事があり、太宰好きの宮本さんは中原中也を毛嫌いしている可能性がありますね。
by 坂田三吉 (2022-01-12 10:50) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。