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『Views』1997年5月号vol.7 NO5(記事要約) [記事&インタビュー]

前回の項目で、自宅の押し入れにあった雑誌記事について紹介した。
1997年の最初の人気上昇期の取材のひとつ。
『ココロに花を』発売から「今宵の月のように」発売前の、
キャニオン期の絶頂前夜にあたるドキュメント&インタビューである。
全文引用はできないので、宮本浩次の発言はいじらずに、
地の文におけるドキュメント部分を要約して、短縮要約版を作成した。
また、記事の流れと直接関係ないと思われる冗長部分については、
宮本の発言もふくめて、ばっさり落とした。

大要を記せば。

(1) 96年、事件とも思えるほど突如ブレイクしたエレファントカシマシへの絶賛。
(2) 初期エレファントカシマシの反・流行的スタイルがファンとのあいだにつくった溝。
(3) 宮本の生い立ちと幼少時代のおのず語り。バンドの成り立ち。
(4) 転機となった、エピック・ソニーの契約切れとインディーズ活動時代。


記事中盤に登場する次の発言は、
ユニバーサル移籍後の境地とダブるから、不思議である。

「いままではなんだか斜に構えちゃってたのかもしれない。だけど、
 売れたくないワケはないんですよね。
 社会性がなかったんだと思う。
 自分の気持ちを正直に言ったほうがみんなに届きやすいんじゃないかと思って……」

現在のエレカシはキャニオン期以来の絶頂期にあるが、
私はあの当時よりも、もっともっと高みに届いた素直な姿でいると感じている。
メンバー全員がそれぞれこんなにも輝いているのは、これまでなかった現象じゃないか。
どおりで東西野音公演がプラチナ・チケットになるはずである。



『Views』1997年5月号vol.7 NO5(記事要約)


 記事中にはエレファントカシマシが世間知を得てメジャーになっていく、その過程がドキュメント風に綴られている。そのはじめに、著名人たちの高評価が列記してある。

 奥田民生いわく。 「いまの音楽業界では、〝エレカシっていいよね〟って言うことが、ひとつの流行りのようになっている」。トータス松本(ウルフルズ)いわく。「自分が精神的に落ち込んだ時にエレカシの曲を聴くと、元気がでてくる」。その他〝ミリオンアーティスト〟たちも、エレカシには一目置いていると。

 エレファントカシマシのブレイクは、’96年の音楽業界に起こった〝事件〟のひとつだと記事は語る。業界ウケ、玄人ウケするバンドにすぎなかったエレカシが突如ブレイクしたからである。アルバム『ココロに花を』は外資系ショップのアルバムチャートで軒並み1位を記録。CMでも引っ張りだこの状態となった。

 大手広告代理店関係者いわく。「ちょっとハスキーで温もりのある宮本クンの声は、一度聴いたら忘れられないほどの存在感がある。メロディもすごくいいから、エレカシはCMで使いたいと思う注目アーティストの筆頭」となった。CM露出や女性誌モデルの紹介によって、音楽ファンだけでなく、一般の女性たちにまで、エレカシ・宮本人気は急速に浸透したと記事は語る。

 さらに記事は、エレカシが低迷したころのライブについて筆をのばす。
 「バカヤロー。おまえら、俺の友だちでもなんでもねぇんだ。馴れ馴れしく拍手なんかするんじゃねぇ!」1曲歌っただけで、宮本はさっさとステージを降りてしまった。88年12月30日、新宿コマ劇場でのこと。
 宮本が自ら語るには、
 「目の前には自分らのことを知らないお客がいて、本当に演奏を聴いてるのかもわからないんだよね。演奏に関しては俺らすごく律儀にやってたから、『おまえらほんとにわかって拍手してんのか。そうじやなかったら拍手するな。自分の目当てのバンドだけ観ればいいじやねぇか』 って。すごく四角四面に考えちゃってた」という。

 〝客を怒鳴るバンド″という偏見が影のようについてきて、一般の音楽ファンを遠ざけてしまったことについて。
 「たしかに〝客を怒鳴るバンド″みたいに言われてたことは事実です。でも、そう言われると今度は、なんだか観客がそれを逆に期待して来てるんじゃないかっていうふうにも思えてきたんですね。それでもう、ますます腹が立ってきて、よけいに怒鳴ったりしてた」と宮本は語る。

 だが、〝客を怒鳴るバンド〟というイメージがいつのまにかひとり歩きし始めると、逆に宮本はそのイメージに縛られ、苦しむことになった。そして、エレカシは次第にバンドブームの音楽シーンからは取り残されていったという。

 66年6月12日。東京・北区赤羽の公団住宅に住む、サラリーマンの父と専業主婦の母を持つ家庭に、宮本浩次は生まれた。5歳上に兄がおり、次男だから浩次と名づけられたという。宮本は自らの幼少時代を語る。

 「小学生の時からとにかく目立ちたがりで、自分の意見が通らないとギャーツと大騒ぎするような協調性のない子供でした。最初は珍しがられるんだけど、5~6年生の頃にはみんな自覚が出てくるでしょう。まわりから浮いてしまってですね、話しかけてくれなくなったりとか。いまだにビビッてますけどね、人に…。妙に中身が傲慢(ごうまん)であるにもかかわらず、〝インチキ丁寧語〟というか、ちょっと隠した話し方をするのは、そのへんに根拠があるような気がします」

 北区立赤羽台中学に入学し、宮本は現メンバーの石森と冨永と出会う。のちに加入する高緑成治は、冨永のクラスメートだ。

 「石クン(石森)とトミ(冨永)とはずっと遊び仲間だったんだけど、俺は最初、バンドなんてぜんぜん興味なかった。ただ、俺が合唱団にいたことを知ってたから、歌をやらないかっていうふうな感じで、彼らのバンドに誘われたんだと思う。その頃はどんな時でも週2回は練習してて、〝謎の真剣さ〟があった」

 自らのサウンドを追求するあまり、ロックビジネスのフォーマットから著しく逸脱したエレカシ。しかし、この取材のなかで宮本自身のロから「売れたい」というコトバが素直に出てきたと、記者は驚きをかくさずに述べている。その宮本の発言。

「いままではなんだか斜に構えちゃってたのかもしれない。だけど、売れたくないワケはないんですよね。社会性がなかったんだと思う。自分の気持ちを正直に言ったほうがみんなに届きやすいんじゃないかと思って……」

 エレカシと宮本の大きな変化について、記事はエピック・ソニー最後のアルバム『東京の空』の録音と、契約終了後のインディーズ・シーンでのライブ活動を挙げている。

 宮本自身、到達点と語る7枚目のアルバム『東京の空』のレコーディングの真っ最中に、エピック・ソニー所属時代の全アルバムのディレクターを担当した、山中幸夫の異動と事実上の契約切れが決まった。

 「スタジオで山ちやん(山中)が、『そういうこと(異動&契約切れ)になっちゃったから、今日はもうレコーディングする気になれないから止めない?』 って言うから。俺、7枚目に関してはレコーディングの前に明快なイメージがあったから、すごくテンションは高かったの。契約切れでスネるなんてとんでもない、って感じだったよ」

 94年末。音楽をともにした事務所とも別れたエレカシは、下北沢周辺の小さなライブハウスまわりを始める。

 「ちっちゃいライブハウスは客との距離も近いし、やってるときは楽しいんですよ。ただ、ライブが終わってひとりになると、(契約がないという事実が)ジワジワとこう……ボディブローのように効いてくるんです」

 『東京の空』でつかみかけていたバンドサウンドのイメージが、次第に実を結びはじめていた、と記事は語る。『四月の風』『BABY自転車』『孤独な旅人』といった新曲が、この時期に次々生まれていたからである。記者は、「宮本、そしてエレカシは少しずつ変わろうとしていた。契約が切れたことは不幸ではあったが、逆にいいきっかけになった」と、その変化を肯定的に受け止める。

 「ずっと同じ体制で7年問やってきたんだけど、もうちょっと外に出たいとずっと思っていたんです。契約が切れて、新しいレコード会社や事務所とそういう話し合いができたことは大きかったと思います」  メンバーの結婚という、久々の明るい話題もこの時期に重なった。  「エピック最後になる7枚目のころに、石クンと成ちやん(高緑成治)がそれぞれ結婚をしたんです。なんか寝耳に水で、『結婚? エエッ? しかもこの時期に?』みたいな感じでしたけどね。でも、やっぱり彼らからはすごい良性のエネルギーをもらいました」

 エピック・ソニー時代から、ライブをサポートしてきたディスク・ガレージ副社長・中西健夫は語る。  「契約切れのあともずっとライブを続けてきたんですけど、不思議なことにライブの動員が増えていったんですよ。」

 「システム化された音楽ビジネスへのアンチとして登場したがために、これまでメジャーシーンに登場することがなかったエレカシ・宮本。時代の風をうけて、その〝声″が、こうして世に出た。〝戦う男″宮本に、もう怖いものはないだろう。」
 記事は取材記者のこの言葉でしめくくられている。


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