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苦しいときの「ああ」頼み [分析]

エレファントカシマシの歌には「ああ」が多いということは、少し聞き慣らせば誰でも気付く。(いや、気付いていないのかな? 今回ブログで項目を立てるに当たって、誰か書いてないか調べてみたが、検索エンジンに引っかかるほど著名な項目にはなかった)。

その「ああ」の七色の表現と声音(こわね)の美しさに惹かれるので、だいぶ騙されてしまうのだが、「少し多すぎはしないかい?」と尋ねたくなるのも道理。

エレファントカシマシの歌は音数に対して言葉数が多いことも知られている。エピックやキャニオン時代は音数に言葉を合わせているのだが、EMI移籍以降は、歌詞を力業(ちからわざ)でメロディに乗せていく曲が少なくない。ところが、音に対して言葉数を詰め込むタイプの作詞家である宮本浩次ではあるが、余った音を埋められず窮余の策で「ああ」にすることも少なくないのである。


「ああ」は詠嘆であり、感嘆であり、咆哮であり、喜怒哀楽何にでもなりうる言葉であるから、歌の上手な人間には万能の切り札なのである。それを知ってか知らずか(確実に知っているだろう)、歌詞に煮詰まったときに宮本は、「ああ」をくり出してくるのである。

ざっと、歌詞をめくってみたが、「ああ」の歴史の始まりはファースト・アルバムの【やさしさ】に端を発する。つづく2ndアルバムではすごいことになっている。10曲中6曲で「ああ」が登場する。【ああ流浪の民よ】では、ついにタイトルにも付いている。『浮世の夢』では9曲中5曲。『生活』では9曲中7曲。つらつら数えてみると約200曲の楽曲の中で、74曲の歌詞中に「ああ」があったのである。単純計算、およそ3曲に1曲は「ああ」が使われている計算になる。この事実を見れば、宮本浩次は「ああ」歌いの歌手と言われても然るべきである。

ところで、私が窮余の策と見ている「ああ」を紹介しよう。

【いつものとおり】の「ああ」
サビの部分に頻繁に出てくるが、音埋めに使われている代表的一例だと思われる。

名曲【四月の風】の「ああ」。
キレイに嵌っているが、実は埋まらなかったところに、「ああ」を嵌めたような気がする。

【秋-さらば遠い夢よ-】の「ああ」。
これもうまく効果を発揮してはいるが、本当は埋めるはずの部分だった気がする。

【地元の朝】の「ああ」。
これは明確に窮余の「ああ」。制作ドキュメンタリーでも歌詞ができないことを嘆いていたくらいなのだ。

【達者であれよ】の「ああ」。
もう埋まらないと早々に「ああ」を入れたのか、サビで「ああ」2連発。

近作【絆】の「ああ」
サビの頭の「ああ」は見逃すとしても、一番の2度目の「ああ」は窮余の一策。

エレファントカシマシの「ああ」はその登場回数の多さが半端な数ではない。つまり、窮余の策の「ああ」ではあるが、窮余の策も過ぎて慣れれば一つの芸である。今や「ああ」を歌い込んで25年(註1)。宮本浩次を超える「ああ」の歌い手はいないと思えるほどである。しかも、字面で見ればただ同じ「あ」を二つ並べただけであるが、歌声のなかの「ああ」の魅力的なこと。それこそ「ああ」を聴くための楽曲もあるのではないかと言いたくなるほどである。たとえば【曙光】などがそれであるが(【晩秋の一夜】も忘れてはいけない)。

こうして頻繁に「ああ」ばかり登場すると、いい加減「ああ」にも飽きてしまうものだが、不思議とそういう飽きが来ないのが、まさしく歌唱力のたまものである。

正直に告白すると、「ああ」だけで1曲書いて欲しいくらいである。エレファントカシマシのファンになり宮本浩次のボーカルに惚れ込んだなら、「ああ」や「おお」や「そうさ」などがまるで気にならなくなる。それどころか、それを聞きたいと思うほど中毒になるのである。ただ、そんな楽曲を他のアーティストにカバーされるとわかるのだが、歌詞が宮本以外には表現できない穴あきになっているのである。そう、「ああ」の繊細な違いは、書いた本人しかわからないのである。にもかかわらず名作であるとは、宮本浩次は罪作りな作詞家であり、歌い手である。ああ…(オチです)。
(了)

註1
宮本浩次も大好きなマンガとして挙げている『ど根性ガエル』。その主人公であるヒロシが通う学校の担任の先生の口グセが「教師生活25年」である。それを真似て言って見たまでで、正確に「ああ」を歌って25年というわけではない。つい筆が滑って書いて、後で訂正しようと思って忘れてしまった。ということで、注釈を入れることにした。しかし、約25年、四半世紀歌っていることは確かである。言い訳である。
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コメント 6

レヴォン・ヘルム

こんにちは。
エレファントカシマシの歌詞は宮本さんの日記という側面が多分にあるところが、いわゆる一般的な歌と趣を異にする所以であると思います。
メロディーに対して、歌詞に沿った気持ちに合う言葉が見つからない場合、意図的にメロディーを無視する、という事態は起こり得ることだとは思います。
勿論、これと同じことは一般的な歌でも良くあることではありますが、それと比較すると自由度は極めて低いでしょう。
宮本さんが求められて頑張って作った一般的な歌の中にも「ああ」が入ってくるのは歌詞が思い付かなかった部分もあるでしょうが、癖ということも考えられます。最もこれは、非常に高いレベルの話であって、例えば60年代のボブ・ディランが一小節歌詞を休んだからと言って、そこの部分は歌詞は思い付かなかったのか?と誰か言うでしょうか?一般的な日本の歌に話を戻しますと、蔦谷氏がプロデュースしているスーパーフライの曲にはサビが丸々「ナーナーナー」で埋められているという極めて稚拙な例もあります。これに関しては一種の遊びであるとか、狙いであるとかいう意見もあるでしょうが、聞く人に伝える最も大事なサビの歌詞を放棄している以上、手抜きであるとはっきり断言して然るべきと思います。
話が反れまして申し訳ございません。
私は宮本さん以上に歌に誠実に向き合っているアーティストはいないということを主張したかったのです。
by レヴォン・ヘルム (2010-04-17 08:57) 

黒のシジフォス

> レヴォン・ヘルムさんへ

宮本浩次の歌詞に「日記的側面」がある、
というのは少し違う気がします。
たしかに実体験と実感を重視した作風は、
日記と見まごうほどの肉迫を持っているのですが、
ほぼ完全にノンフィクションであるところの日記とは異なるからです。
宮本浩次の歌詞は「私小説」的なのだと思います。
比較するなら、太宰治や森鴎外の現代小説作品です。

エレファントカシマシ(宮本)については、
歌詞について手抜きをしているとは言っていません。
閉め切りまでに上手い言葉が見つからないと、
そこに「ああ」などという言葉を窮余で挿し込んでいるのだろうと言っているのです。
それが最初のうちは「窮余の策」であったけれど、
続ける内に「芸」の域に到達したと。
ただ、これだけの量になると、
どれが窮余の策で、どれが作意の一手なのか正直わかりません。

こころみにお尋ねしますが、
ほかのアーティストにこれだけ「ああ」を歌う歌手がいるでしょうか?

一応、誤解を解くために弁明しておきますが、
項目のタイトルは「人寄せ」のフレーズなのであって、
「苦しいから」すべて「ああ」で埋めているという風に取らないで下さい。
宮本浩次の歌詞はついつい「ああ」に手が伸びていく。
これくらいが妥当なのでしょう。

「宮本さん以上に歌に誠実に向き合っているアーティストはいない」
それは言い過ぎだと思います。
「誠実に歌に向き合ってる」がではなく、「以上に」の方です。
誠実に歌に向き合う歌手は山のようにいます。
それと同じかそれ以上に、世過ぎで歌をうたう歌手もいますが。
ただ、「以上」「以下」を軽口に言い出すのは間違いです。
その根拠はほとんど印象にすぎないからです。
Superflyについても、歌詞の放棄と決めつけない方がよいでしょう。
私も「ああ」が歌詞の放棄だとは言ってませんからね。
「ああ」は埋まらない時の万能表現である、そしてそれで伝えようとしている、
と言ってるんですよ。
ただそれは歌としての完成度はあがっても、
「ああ」は歌詞としてはやはり穴になる面は否定できないのです。
それゆえに「ああ」や「おお」を多用する詩文は存在しないのです。
それを見ても、宮本浩次は詩人であるよりも歌手なのだと強く認識します。

ご指摘、興味深かったです。
懲りずにまた書き込んでください。

by 黒のシジフォス (2010-04-17 11:55) 

レヴォン・ヘルム

こんばんは。
お返事頂きありがとうございます。シジフォス様の仰る通り、私小説と言った方が正しいですね。でも私には日記であろうが私小説であろうがどちらでも構わないのです。歌の中にあれだけの人生観を込められるミュージシャンは他に居ないと個人的に思っているだけです。宮本さん以上に誠実に向き合っている云々の件は勿論、その根拠を示すことが困難であることを考えれば、印象に過ぎ無いと仰られるのは当然のことであると認識して居ります。しかし、ファンとしては少々寂しいという思いが拭い切れないのも事実であります。如是我聞にて太宰治は志賀直哉の小説に対する姿勢を痛烈に批判しましたが、二人のどちらがより、小説に誠実に向き合ったかなど分かる筈もありませんものね。私は只、太宰を、おお可哀想だと感じて肩入れしただけのことでした。
私は今の宮本さんのことも可哀想だと思っています。音楽が死んだ時代に音楽と向き合うのはさぞ辛いであろうと勝手に想像しています。ソロ時代のジョン・レノンの価値が暴落して可哀想。なんでも可哀想ですね。誠実に音楽に向き合っているアーティストは山ほど存在するということが私にはどうにも信じられないのです。聞き手の問題なのでしょうか。私には分かりません。
by レヴォン・ヘルム (2010-04-17 21:12) 

黒のシジフォス

レヴォン・ヘルムさん、再度の返信ありがとうございます。

私もレヴォンさんのおっしゃっている意味が少し理解できた気がします。
つまり、表現の質にこだわる作家は、
「最上を求めるあまり余白を埋めきれない」ということ。
それなら共感できます。

おそらく音楽を極限まで追究しようというミュージシャンは山のようにいるけれど、
(言葉合わせではなく)日本語の歌詞世界を追求しようとするのは、
苦行に近いことですからね。
「ああ」というのは、言葉にできなかった表現ではあるけれど、
そこには万感が詰まってるとも言えますね。
おそらく「穴」であることの意味があるとも。

「誠実に音楽に向き合っているアーティスト」はたしかに存在します。
ただ、必ずしもスポットライトが当たらずに、知られていないだけだと思います。
商業的音楽市場は、
レヴォンさんがおっしゃるように、システマティックな工場生産のようになってますね。
積木のように組み立てたヒット方程式のなかで、歌わされている歌手たちですね。
今年になって亡くなってしまった浅川マキなどは、
その枠に収まらないよい歌い手でしたね。
あるいは、今は隠遁してしまった「ちあきなおみ」も。
若い世代のバンドには言葉の意味を吟味しない、
音楽性重視のバンドが多いですが、それはやはり作詞の手本が歌謡曲だからかもしれません。
よい言葉をつづろうと思えば、やはり文学や詩編を読まないと、
どうしてもマンネリを組み合わせることになります。

その点で、宮本浩次は希有な表現者として別格ですね。
新曲のなかの「置き去りの俺迎えに行け」なども、ふつうの感覚では出てこないです。
いずれ、秀逸な名句も取上げていこうと思いますが、
今回は「ああ」という不思議な表現の穴とそのもったいなさについての文章なので、
やや批判めいてしまいました。
「ああ」はいいですよ。
しかし、エレカシの「ああ」は万感すぎて他の歌い手には歌えません。
そういうことです。少しは納得いただけたでしょうか。
by 黒のシジフォス (2010-04-18 00:54) 

レヴォン・ヘルム

シジフォス様、懇切丁寧に解説して頂きありがとうございます。私は頭からエレファントカシマシの音楽の価値を絶対的なものとして安易に、誠実に音楽に向き合っているなどどいう表現をしたことを、今更ながら反省している次第であります。一口に誠実と言っても表現という手段には様々な形がありますからね。例えば、私は余り好きではないのですが、奥田民生などはサウンドやメロディーにかなりこだわりを持って真面目に音楽に取り組んでいる職人的なアーティストですよね。反面、その事実が一般的に浸透しているとは言い難いですし、あくまでも趣味の範囲に過ぎないという限界もあるとは思うのですが。私は野暮な人間である為に、もっとストレートに社会や人間に対して訴えかけてくれ、と思ってしまう質なんです。
そういうタイプの真面目さに惹かれて、つい肩入れしてしまうんです。だから、エレカシファンはそう言った自分の気持ちに共感してくれる人達だと決め付けているところがあるのだと思います。そのことが齟齬を生む原因になっている様です。
宮本浩次は凡そ、日本語をメロディーに乗せて歌うことに関しては、音楽を極限まで追求するアーティストであると言えるのではないでしょうか。また、ライヴ(コンサート)での素晴らしさはシジフォス様も絶賛されて居られるところですが、今現在、演出も含めて日本で最もプロフェッショナルなロックバンドは恐らく東京事変ということになるのではないでしょうか。しかし、私が力説するまでもないですが、エレファントカシマシは東京事変と双肩するほどのライヴバンドであると確信しています。
by レヴォン・ヘルム (2010-04-18 17:05) 

レヴォン・ヘルム

すいません、シジフォス様。双肩は誤った表現で、正しくは比肩でした。お詫びして訂正させて下さい。
by レヴォン・ヘルム (2010-04-18 17:18) 

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