SSブログ

EPIC期ファンの終わらない憂鬱 その2 [エレカシファン]

(前項目よりのつづき)

自分たちの信じている音楽と期待されている音楽に齟齬をもちながら、エレファントカシマシはそのキャリアをスタートさせた。だからこそ、熱狂的な一部のファンを惹きつけ得たのだが、その期待がバンド活動や楽曲生活における混迷を生み、「何で理解されないんだ?」という懊悩に繋がっていった。それゆえに、EPIC SONYから契約解除され、所属事務所も解散して、もう一度まっさらに戻ったとき、もう一度、原点であるやりたい音楽に戻れたことがPONY CANYON時代の成功の元ではないかと思う。

ファーストアルバムできらきら感を削がれてしまった【やさしさ】、その【やさしさ】を再構築すること、それが大きな目標であったような気がするのだ。だからキャニオン時代はことさらにラブ・ソングが多く、しかも美しいメロディの作品が多いのではないか。それはバンドイメージの払拭と売り上げ的な成功という意味では、成功を収めたのだと思う。しかし、エレカシは今度はキャニオン時代のラブ・ソングと叙情歌というレッテルという新たな決めつけに苦しめられることになる。

EPIC SONYから期待された粗暴ものというレッテル。そして、成功を手にしたPONY CANYONで付けられたラブソングの歌い手というレッテル。そのどちらもが、どちらかに偏りすぎた幻像で、その中間にあって変容するエレファントカシマシというバンドの実像を反映していなかった。もしも、キャニオン・レコードがロック色の強い実験的なサウンド制作を許していたら、おそらくEMI期のような変容はキャニオン所属時代に起こったと思われる。あるいは、いっそバンド活動の休止と宮本浩次のソロ活動になったかもしれない。しかし、レコード会社を飛び出してよりよい制作条件のレコード会社に移籍したのは、おそらくエレカシが等身大の音をつかむための冒険だったような気がしている。

試みにエレカシのアルバム売り上げをオリコンで調べてみれば、その上位は見事にキャニオン時代のアルバム3枚、そしてその時代のベスト・アルバムである『青春セレクション』でしめられている。つづく順位にあるのが、現在所属レコード会社であるユニバーサルシグマとEMI初期のアルバムである。そして、そのあとにEPIC期とEMI中期以降の作品が続いていく。つまり、キャニオン時代が売り上げや知名度としては頂点であり、それにぶら下がるようなEMI期EPIC期があるが、それを越えてキャニオン時代に近づきつつあるのが現在のキャリアということである。

売り上げ的には及ばないものの、その勢いと充実度ではキャニオン時代をはるかに凌いでいるの現在のエレカシである、と私は思っている。それはセールスという短絡的な数字にも現れているが、ライブ後の会場を支配する満足感、観客たちの表情のなかに現れている。そして、MCでもたびたび口に上るように、客席だけでなくステージ上も充実感にあふれているということが、何より現在のエレファントカシマシの好調ぶりを示している。

(以下、EPIC期ファンの憂鬱の原因へ)

ここでまたEPIC期のファンの話に戻る。

EPIC期のファンは現在のエレカシに満足しているだろうか。…と考えたときに、やはり満足したりないのだろうな、という結論に至る(もちろん子細には千差万別であろうが、大まかな把握としての印象の話である)。なぜなら、今のエレカシにはEPIC時代の面影はないからである。いわゆる荒削りな若さもないし、鬱屈も少ない、演奏中にステージをあとにしてしまうような危うさもないからである。EPIC時代にあった、イメージ戦略上のそういうバンドを演じてはいないからである。そして現在のエレカシの姿はといえば、キャリアのすべての楽曲を現在という同じ立ち位置から演奏してみせる技量をもっている。EPIC時代の楽曲とキャニオン時代の楽曲を無理なく並べ、ラブソングと懊悩の歌を接続して無理なく聞かせることができる。それはおそらく、EPIC時代にはありえなかったパフォーマンスであり、EPIC時代のファンには器に収まってしまったように映っているに違いない。

ただ、私は思うのだが、EPIC時代こそがキャリア上のなかでも特別で、本人たちよりもかなり歪な姿であったのであり、キャニオン以降のほうがより等身大に近いバンドの実像なのだと思う。だから、EPIC時代に戻れというのは、ファンのエゴとしては理解できるが、決して果たされない願望なのだ。そもそも、エレカシのメンバーが背伸びに苦しんだ状態に戻れということ自体、それ自体がファンの立ち位置としてどうかと思うのだ。生き物は化石ではないのだから、姿かたちも変わるし、脱皮をすれば、もとの大きさには戻れない不可逆の定めを負っている。どのバンド、どのアーティストのファンにも一定数存在する、デビュー当時がいちばんよかったとする言説。その不幸は、ありえない過去の再来を期待する夢想ぶりである。

デビュー当時が輝いているのは当たり前である。しかも、そこから変容していくことも当たり前で、その変容ぶりに嫌悪するならば、つぎつぎとデビューする新しいバンドへと乗り換えていくほかはない。エレカシの場合は、デビュー当時の作風がしばらく続いたのは、売り上げが思ったほどのびなかったことで、バンド自身が目指す方向性をよりよく発揮できなかったこともあるのだと思う。EPIC時代のサウンドが個性的である反面リスナーを心地よくさせないのは、その音を鳴らしているバンドが苦しんで音を鳴らしていることの反映だと思う。ありていにいえば、バンドをやっていることがあまり幸福ではなかったのだと思う。だから、あの音が鳴っていたのだし、苦悶に近い歌唱が続いていたのである。

私はエレカシがユニバーサルシグマでたどり着いた境地こそ、まさに等身大のすばらしい音楽性だと思っている。EPIC時代の鬱屈も当然に内包しているし、ポピュラリティーを獲得したキャニオン時代の叙情歌的な側面もあり、中年を迎えても求道の思いやまないEMI期の混沌をさえも抱き取りながら、トンネルを抜けた丘の上で青い月を見ている。音楽をならしているバンド自身が幸せで、それを聞いているリスナーも幸せなら、こんなに素晴らしい季節もないだろう。現在のエレカシはキャリア史上でも最高点を更新しつづけている気がする。

などと言ってもEPIC期のファンには通用しないのかもしれない。
ほかのバンドでも、初期だけが素晴らしいと言い張るファンは多い。しかし、そういう頑迷固陋な考え方は、自分自身を不幸にする。若さなんて一瞬である。その一瞬を永遠に続けることを相手に求めるならば、ひるがえって自分はどうか問いなおしてみるといい。自分がそのときのままでいるのか。

初期音源をあと追いで聞いて、そこだけがよいというファン。それもまた不幸である。すぎた過去は戻らない栄光である。今生きてある人の脇で、その人の若かりしころの写真をなでさすって、何になるだろう。もし目を開けば、老いても生きてある人がいるその脇で、写真のなかの若い人を愛しても、ただ空しいばかりである。つまり、過去を愛することは空しいのである。それよりは、生きてある人、今バンドが鳴らしている音の良さを知れば、今を同時に生きることになる。

標本箱のなかで見目麗しいチョウよりも、それほど美しい羽を持っていなくとも、生きて花畑を飛ぶチョウのほうがよほど素晴らしい。私はそのことを伝えたい。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。