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続・「ああ」についての考察 [分析]

前回項目で歌詞中の「ああ」に関して述べたが、論旨が整理しきれていなかったことで、誤解を招いたところがあるので、弁明方々、追伸を述べたいと思う。

 前回の項目で言いたかったことは主に3つ

(1)エレファントカシマシの歌(歌詞)には「ああ」が多く存在する。
(2)「ああ」は、おそらく歌詞を埋めきれなかった部分を補填する窮余の表現(すべてではない)のひとつ。
(3)「ああ」は表現としては空白に等しいが、歌のなかでは歌唱力によって如何様な感情をも表現しうる。


前回項目が慣用句の「苦しいときの神頼み」を捩(もじ)って、「苦しいときの『ああ』頼み」としたばかりに、安易な苦し紛れを非難しているように一部の方に誤解されてしまった。これは、ひとえに私の説明不足なので反省しなければならない。申し訳ありません。




ただ、歌詞や詩文において「ああ」や「おお」というそれ自体ほとんど意味をなさない言葉は、極力排除すべき曖昧表現であることは、ふつう一般には認められていることある。それは記号表記でいうところの「…(三点リーダー)」であり、読者に丸投げする逃げ道に通じている。そのことを一応指摘しておきたかったのである。

しかし、それは作詞者宮本浩次が歌詞の作成に手を抜いたからそうなったのではなく、懸命に考えて閉め切りギリギリまで追い詰められても、埋めきれなかった部分の余白なのではないかと私は考えている。それは曖昧な余白ではあるが、決して安易ではない。もちろん、埋めて埋められるならばそうしたほうがいい。ただ、いつまでも閉め切りのない仕事をしているわけではないから、言葉を選べずに「ああ」になってしまうのだろうなと、私は解釈しているのである。それをして「窮余の策」と私は呼んだのである。

「窮余の策」とは呼んでみたものの、一時しのぎのわざと呼ぶにはエレカシの「ああ」は数量が多すぎる。また、一時しのぎと呼ぶには、「ああ」の完成度が高すぎるのである。そこで、はじめのうちは「窮余の策」として使った「ああ」が、芸として磨きがかかり、ひとつの見せ場として機能しはじめたのではないかと考えたのである。それで、前回の後半部で魅力的な「ああ」を聴くための歌があること、「ああ」のみでも1曲を表現しうる宮本浩次の歌唱力について述べたのである。

「ああ」というのは、文面上から見れば空白に等しい「穴」であるのだけれど、宮本浩次という類い希な歌唱力の歌い手にかかると、複雑な言葉になりきらない感情を表現するための「余白」となっている。つまり、歌われることによって完成する歌詞と呼べるのではないだろうか。

「ああ」は未完成ではあるが、「ああ」という未完成の完成形ではあるのだ。この形容矛盾としか言いようのない複雑な表現が、エレカシの歌唱のなかでは必要とされる。すなわち、「ああ」を歌いこなせない歌手には、エレカシの歌をカバーすることなどできっこないのである。エレカシの歌がカバーに適さないのは、すなわち「ああ」の存在なのではないかと私は睨んでいる。(了)


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