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石君はなぜミヤジをガン見したのか? [つれづれ]

昨年の野音DVDにもはっきりと収録されていた、
宮本の「アンタ、俺のこと見すぎ」発言。
ギターの“相棒”石森敏行に向けて放たれた一言。
この一言から深く考察して見よう。
ミヤジと石君の奇妙な友情は不思議であり、心温まる。



まず、確認しよう。
ライブ(コンサート)中、メンバーは宮本の挙動を注視している。
それは、宮本がバンド・マスターであり、
いわば指揮者(本人いわく総合司会)だからである。
オーケストラを考えてもらえばわかるが、
団員は指揮者をガン見して当然の状況にあり、
むしろそれが仕事であるとも言える。


次に、石森敏行は宮本に愛を注いでいる、
これも確認されることである(同性愛的な意味ではない)。
メンバーの中でも特別にミヤジと仲が良く、
にも関わらず「宮本さん」と敬語で話す石君。
その敬愛と敬慕の対象が宮本にあることは間違いない。
だから、ステージ・ワークの最中に見とれることさえある。

では、昨年の野音で石君が「ガン見(語注)」していたのは上記の二つからなのか?



その答えは「YES」であり「NO」である。

つまり、上記のような日常の仕草を含みつつ、
具体的にはまったく違う理由があったのである。
それは打込みトラックの音出し、音止めである。
石君がガン見していたその時は、
石森PCから打込みトラックを鳴らす必要のある曲だったはずである。

ふつうは舞台袖でマニピュレーターの人が操ったり、
或いはキーボード担当もしくはボーカル本人が操作したりするものだが、
エレカシの場合は石君にまかせきりなのである。
というのも、エレカシのメカニック担当が石君その人だからである。
そういう事情もあって石君は、打込みトラックを使う曲の直前や終盤で、
その微妙なタイミングを合わせるために、
いつも以上に宮本御大をガン見する体勢に入っているのである。

自分のタイミングではじめて、
自分のタイミングで終わりたい、宮本御大。
しかもそのきっかけやタイミングも気分しだい、
ある時はイントロが長め、ある時はアウトロが長め、
ある時は間奏が長め、ある時はやたらテンポが早め、
と気分次第の変幻自在。
これに随いていくメンバーは大変である。
楽器の演奏であれば、はじめた後で帳尻あわせもできるが、
打込みトラックはON/OFFしかないので、
そのタイミングが綱渡りである。
ゆえに、PC前の石君はナーバスなのである。

「アンタ、俺のこと見過ぎ」と宮本御大は言う。
しかし、脇目を振りながら適当にトラックを鳴らしたらどうであろう。
間違いなく憤怒の形相となろう。
あるいは、自分のことを見ないで観客へのアピール、
その他のメンバーと勝手に絡んでいたとしたらどうだろう。
これもまた、憤怒の形相となろう。
あれは宮本御大なりの逆説的愛情表現なのだが、
ふつう一般の人にはわかりにくすぎる。
しかも理不尽であるところに苦笑してしまう。

こういうSM(サドマゾ)的な愛情の結節は珍しいことではない。
私が敬愛する劇作家のつかこうへいなどが好んでこれを用いる。
彼の代表作に『蒲田行進曲』という作品があるが、
この主人公の銀ちゃんとヤスの関係性は、
そのままミヤジと石君の関係性に置きかえられる。

つまり、「アンタ、俺のこと見過ぎ」に対する、
正しい反応は、
「すみません、でも愛しているので…」と言って、
「気色悪いこと言うな」と叩かれることである。
見ることは正しい。だけど、怒られなくてはならない。
この二律背反がSM的な愛情関係には必要なのである。

すでに述べてあるが、
石君が宮本浩次をガン見していた理由は、
PC作業の都合であり、それに加えていつもクセである。
だから、特別にあの日だけガン見していたわけではないことは、
ライブへの参加頻度が高い観客なら理解しただろう。
どんなことをしても、何か言われたのである。
また、そうやって絡みたかったのである。

あれはそうつまり、
オヤジさんがオカミさんにふっかける
漬け物が辛い、味噌汁が熱い、風呂が温い、部屋が汚い、
というたぐいの無理難題である。
批判というよりも、相手の反応を見るためのアクションである。
言葉が否定的な意味に傾いているのは、
それは表現が逆説型だからである。
(エレカシ内のお袋さん的な立ち位置は冨永だと思うが)
(了)
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