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「俺」と「私」と「僕」と「我ら」 [分析]

あるとき、知人からエレカシの歌の主人公は「僕」が多いね、と言われたのである。
そんなことはない「俺」がダントツ一番に主人公だ、そう言い返したかったのだが、
手元にそれを証明するものが何もなかったので、これまでの分析同様、
またしても一つ一つカウントしてみたのである。
(この手の統計は、ファンのあいだでしか流通しない本当のトリビアイズム[無駄知識]である)

まあ、それはいつものことだからよいとしよう。

結果から言おう、エレカシの歌の主人公は「俺」がダントツ(60%)である。
つまり2曲に1曲は「俺」ということになる。
そして、25%が人称代名詞「なし」、つまり判別不明の主人公である。
この二つですでに8割を占めている。
では、「僕」はどのくらい登場するのかと言えば、「僕ら」を含めても10%がよいところ、
10曲に1曲くらいの割合でしか存在しないのである。

つまり、「エレカシの歌は「僕」が多いね」は、偏見であることが確定したわけである。
少なくとも「僕」の6倍は「俺」の歌があるのだから、
エレカシは「俺」歌の歌い手として認識されなければならない。

カウント・データを載せておこう。
人称代名詞別の楽曲のカウントは次のようになる。

「俺」133曲(60%)
「僕」―27曲(12%)
「我」―5曲(2%)
「その他」―2曲(1%)
「なし」―56曲(25%)

(「オレ」「俺たち」「ぼく」「我ら」等表記違いを含む、重複も各1カウントとした。
重複カウントのため、楽曲数が実数より上増しになっている。)

本編はここだけで終わり、後は余談になります。
お暇な方だけどうぞ。(忙しい方と独断が嫌いな人にはおすすめしません)

エレカシの主人公が「俺」であることは、数枚のアルバムを持っているファンなら誰しも気づくことであろう。
実際、「僕」が多いと思われているCANYON時代でさえも、10曲しか登場していないのである。
逆に「俺」はざっと数えて、少なくとも20曲は制作されている。

その辺は直感的にも理解出来る単純な事実である。
これはいつか歌詞のネタとして言及しようと思っていたのだが、
宮本の作詞はときおり「俺」と「僕」が混濁することがあるのだ。

たとえば【孤独な旅人】
「いずれ僕ら そんなものだろう」
「つかまえて 勇気づけて 俺を」
が代表例である。

他にも、【恋人よ】などはもっとわかりやすい。
サビの一連に続けて出てくるからだ。

「僕等は行くよ どんな悲しくても
その胸に抱く いつかのあの夢を
ココロに秘めて きどって歩き出せ
明日の風よ 俺になびけよと」


【恋人よ】の人称は最後には「我ら」ともなる。
「僕」と「俺」と「我」の混在である。
これはふつう一般にいう文法違反である。

さらにあと1曲。【赤い薔薇】にも1行だけ「オレ」が登場する。
ほかの全てのサビは「僕」であるのに、
なぜか1行「オレはビルの灯り」だけ「オレ」なのである。

これは何か意図があってのことなのだろうか?
それとも、単にケアレスのミスなのか?

前者【恋人よ】の決めゼリフには意図を強く感じる。
しかし、後者【赤い薔薇】の「オレ」は唐突でケアレス・ミスのように感じる。
おそらく、宮本の作詞に関しては、校正がしにくい(間違いを指摘しづらい)ので、
ほとんどの作品はスタッフの文法チェックを通らずに完成しているような気がする。
つまり、放送禁止用語のようなコードにひっかかりさえしなければ、
基本ノーチェックなのではないかという推測が成り立つ。

宮本浩次はあれほどの文学的素養と、
類いまれな形容の書き手あるにもかかわらず、
人称代名詞の整理ができていない節がある。
主人公の呼称は「俺」でも「僕」でも「私」でも「我」でも構わない。
だが、同じ文章中で呼び方が変ってはいけない、
というのは作文法の大原則である。
「俺は駅へ向かった。そして、僕は切符を買って電車に乗った。」
これでは登場人物の判別がつかなくなる。
同じ作品の文中では、人称を変えていけないのは文法の基礎である。
しかし、例外的に人称代名詞を替えていいのは、
セリフや手紙のなかと、主人公が多重人格のような場合だけである。
「俺は駅へ向かった。そして窓口で長距離切符を買い求めた。『僕に大阪行きの切符を1枚くれ』」。
しかし、これも違和感が残るので、原則的には替えるべきではない。
日常的なしゃべり言葉のなかでは、呼称の変更は問題ではない。
しかし、いわゆる作品のなかの成文としては、断りなしに人称代名詞を替えるのは御法度である。
宮本浩次はときおり悪気なくこの約束事を破るのである。
しかも、その歌が名曲だったりするので、戸惑ってしまう。

対称的な代名詞を使うことも少ない。
「君」   ←→  「僕」
「お前」  ←→  「俺」
「あなた」 ←→  「私」
「彼女」  ←→  「彼」


すでに見たように主語は「俺」であることが多い。
そして、この「俺」の対称語が、
「君」や「あなた」であることが意外と多いのである。
実はこの非対称性というものは、
作品のよい意味での歪さと、
世間的な意味の「据わりの悪さ」の同居という、
不思議な感覚をエレファントカシマシの世界に与えている。
「僕」と「俺」は音数がいっしょなので、
言葉の置きかえは容易である。
しかし、置きかえた時に世界観が変ることの意味を、
おそらく宮本は無意識のうちに調整しているのである。
すなわち、文法的な間違いよりも歌としての世界観を優先しているのだ。

「僕」と「俺」の違いは、文法的には人称名詞としての違いであるが、
音を重視した歌詞の場合では、発音の違いでもある。
「ボク」の場合は「ボ」にアクセントがあり、
「オレ」の場合は「レ」にアクセントがある。
また濁音のあるなし、語感におけるイメージなども作用している。
「輝く太陽はボクのもので」
「輝く太陽はオレのもので」
言葉以上に音とイメージでまったく別物になる。
つまり、【恋人よ】
「未来の夢よ オレになびけよと」
「未来の夢よ ボクになびけよと」
とのイメージの違いは明らかである。
そこで宮本は文法違反を使って「オレ」を使うのである。
【恋人よ】の歌詞の面白さは、
ほとんど相似形の歌詞が主語の人称代名詞の交換によって、まったくイメージを変える面白さである。
こうした、人称代名詞の違いに焦点を当てることも、エレカシ作品のもう一つの楽しみ方である。
(了)
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コメント 2

かぁーちゃん

ドーン!
普請虫さんこんばんは。

俺=男だぜ!男くさいぜ!
僕=青春・やわらかいの。

でもこうやって焦点当てて考えてみたことがなかったので
趣深いこと山の如しです。
しかし赤い薔薇、カッコよくキメたくてそこだけ「オレ」にしたのかなぁ。
普請虫さんの推測も面白いこと山の如しです。






by かぁーちゃん (2010-08-30 00:23) 

黒のシジフォス

> かぁーちゃん
こちらにもようこそ。
歌詞の微妙な違いは、感覚的には意識しているだろうけど、
文法的なルールとしては意識していないと思うよ。

【赤い薔薇】はついつい「オレ」が顔を出した、
そしてそれを直しそびれたんじゃないのかな。
逆に【恋人よ】は意図的に替えたんだと思うんだよね。

色んなところを追求すると、興味深いと思うよ。
そういう不思議な魅力があるのが、宮本ワールド。
エレファントカシマシ・ワールド。
by 黒のシジフォス (2010-08-30 22:25) 

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