エレファントカシマシと魚 [つれづれ]
エレファントカシマシの作品に魚は泳いでいない(2011/05/24現在)。
しかし、歌詞検索を「さかな」でかけると、数曲ヒットする。
つまり、泳がない「さかな」がいるわけである。
そんなことを調べてみたという一段。
【ガストロンジャー】に比べたら、どうしようもない話なので、
ひまつぶしに読んでいただきたい。
「魚」ではない「さかな」とは何か?
種明かしをすれば、しごく単純きわまる。
「…さ」~「かな…」という脈絡をまたがる結節である。
つまり、「魚」ではない「さかな」である。
この「魚」でない「さかな」がいる曲、5曲ある。
といって、該当箇所が思い浮かんだ方はすごい。
文脈としての単語が思い浮かぶ人は多いだろうが、
「…さ」~「かな…」という脈絡をまたがる結節は、
意味がないので、全曲の歌詞を暗記している人でも、
まあ難しいだろう。
かくいう私もその一人である。
([注]全曲暗記ではなく、思い浮かべるのが難しいほう)
ただ、この5曲のなかの「さかな」君は、
すべて同じ形をしているのでびっくりした。
すべて「○○さ」~「かなしい(み)」という繋がり方だからである。
我ながら、強引に釣り上げた「さかな」である。
かな表記に直さなければ、「悲しい(悲しみ)」となるので、
「さかな」とは到底おもわれないわけで、
あまりに手前勝手な理屈による釣果(ちょうか)であるが、
これはこれでなかなか面白くないだろうか。
エレカシ作品中では、
「さかな」の傍には必ず「悲しみ」がある。
あじ、秋刀魚、平目、かれいを釣ろうとして、
破れ傘やら空き缶やらゴミのたぐいをたぐり寄せた気分であるが、
はてさてゴミ釣り上げる「悲しみ」もオツなものである。
人生とはけだしほとんど益体ないものだからである。
『旧約聖書』にいう「塵は塵に」であり、
「堕落論」にいう「生きよ、堕ちよ」である。
などと言いつつ、「魚」のいないことを、
確認できたことをほくそ笑む、私である。
エレカシの作品中に魚が出てこないのは、
あまり料理にこだわりがないからではないかと思う。
魚で季節を確認し、それを情緒とする人たちは、
たいてい釣り人か料理人、あるいは美食家である。
宮本浩次はそのどれにも当てはまらないゆえに、
「魚」が作品中に登場しないのであろう。
海や川の景色はあるけれど、「魚」がいないというのはじつは少し寂しい。
あるいは、食卓の景が歌詞中にあまりないのも意外といえば意外。
私の思いつく限りでは、
【ハローNew York!】の「American crab sandwich 来ない YEAH!」と、
【オレの中の宇宙】の「おふくろが用意してくれた晩ゴハンをテレビを/見ながらオレ ツナワタリで食べていた」
くらいなものだ。
あとは、
【化ケモノ青年】の「おい今夜は酒もってこい」 をぎりぎり膳と呼べるだろうか。 佐藤春夫の「秋刀魚の味」ではないが、 食卓に焼き魚の景も悪くはないはずなのである。 食卓をロックとして描くのは大変ちからわざがいるが、 その辺は文学性の高いロックミュージシャンとしていつかねじ伏せて欲しい。 (了)
しかし、歌詞検索を「さかな」でかけると、数曲ヒットする。
つまり、泳がない「さかな」がいるわけである。
そんなことを調べてみたという一段。
【ガストロンジャー】に比べたら、どうしようもない話なので、
ひまつぶしに読んでいただきたい。
「魚」ではない「さかな」とは何か?
種明かしをすれば、しごく単純きわまる。
「…さ」~「かな…」という脈絡をまたがる結節である。
つまり、「魚」ではない「さかな」である。
この「魚」でない「さかな」がいる曲、5曲ある。
【デーデ】 / 【やさしさ】 / 【石橋たたいて八十年】 / 【涙】 / 【シグナル】
といって、該当箇所が思い浮かんだ方はすごい。
文脈としての単語が思い浮かぶ人は多いだろうが、
「…さ」~「かな…」という脈絡をまたがる結節は、
意味がないので、全曲の歌詞を暗記している人でも、
まあ難しいだろう。
かくいう私もその一人である。
([注]全曲暗記ではなく、思い浮かべるのが難しいほう)
ただ、この5曲のなかの「さかな」君は、
すべて同じ形をしているのでびっくりした。
すべて「○○さ」~「かなしい(み)」という繋がり方だからである。
「かねがともだちさかなしいことあっても」 【デーデ】
「いきがつまりそうさかなしいきぶんは」 【やさしさ】
「しげきさかなしみもどうかすれば」 【石橋たたいて八十年】
「とおくなってすぎるのさかなしいとき」 【涙】
「まよわずにいけるさかなしみのつきひが」 【シグナル】
我ながら、強引に釣り上げた「さかな」である。
かな表記に直さなければ、「悲しい(悲しみ)」となるので、
「さかな」とは到底おもわれないわけで、
あまりに手前勝手な理屈による釣果(ちょうか)であるが、
これはこれでなかなか面白くないだろうか。
エレカシ作品中では、
「さかな」の傍には必ず「悲しみ」がある。
あじ、秋刀魚、平目、かれいを釣ろうとして、
破れ傘やら空き缶やらゴミのたぐいをたぐり寄せた気分であるが、
はてさてゴミ釣り上げる「悲しみ」もオツなものである。
人生とはけだしほとんど益体ないものだからである。
『旧約聖書』にいう「塵は塵に」であり、
「堕落論」にいう「生きよ、堕ちよ」である。
などと言いつつ、「魚」のいないことを、
確認できたことをほくそ笑む、私である。
エレカシの作品中に魚が出てこないのは、
あまり料理にこだわりがないからではないかと思う。
魚で季節を確認し、それを情緒とする人たちは、
たいてい釣り人か料理人、あるいは美食家である。
宮本浩次はそのどれにも当てはまらないゆえに、
「魚」が作品中に登場しないのであろう。
海や川の景色はあるけれど、「魚」がいないというのはじつは少し寂しい。
あるいは、食卓の景が歌詞中にあまりないのも意外といえば意外。
私の思いつく限りでは、
【ハローNew York!】の「American crab sandwich 来ない YEAH!」と、
【オレの中の宇宙】の「おふくろが用意してくれた晩ゴハンをテレビを/見ながらオレ ツナワタリで食べていた」
くらいなものだ。
あとは、
【化ケモノ青年】の「おい今夜は酒もってこい」 をぎりぎり膳と呼べるだろうか。 佐藤春夫の「秋刀魚の味」ではないが、 食卓に焼き魚の景も悪くはないはずなのである。 食卓をロックとして描くのは大変ちからわざがいるが、 その辺は文学性の高いロックミュージシャンとしていつかねじ伏せて欲しい。 (了)
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